掃き溜めα

キリスト教、哲学、音楽、そのほか趣味に関する駄文の屑籠。

僕がなぜ教会に絶望したのか

 ボーン・クリスチャン(実はこの言い回しも嫌いだ)ではない僕は、聖書に出会い、キリスト教に導かれ、洗礼を受けてキリスト者となった。そんな僕が、今、教会に絶望している。この絶望は、初めはモヤモヤとしていたが神学を学んでいるうちに、ひとつの形状をなしたものだ。批判覚悟で、気持ちをぶちまけることにする。

 

教会は楽しかった……最初は。

 

 求道者として教会に通い、洗礼を受けて初めてキリスト教共同体の一員——兄弟——となったとき、喜びに満ちていた。愛餐会も、イベントも、何もかもが楽しかった。共同体の一員として身の置き場を見つけるということは、社会的なイキモノである人間にとって、何よりも安堵感を齎すものだからだ。マズロー的に云うなれば、所属の欲求が満たされた安心。それがあった。そのときは、僕はまだ、キリストの弟子としては自覚も勉強も不十分だったが。

 

「総会」に出席して……

 教会は宗教法人である以上、年に一度の信徒総会が法律で義務付けられている。受洗して初めての総会——受洗後一年未満だったので、ほとんどオブザーバーだったが——で、初めて教会に対する疑心が芽生えた。

 はっきり言って、そこにキリストの愛は無かった。不手際を断罪される牧師や役員、信徒。そこは建設的な議論の場ではなく、瑕疵を糾弾するだけの刑場だった。事前に為された開会の祈りとは何だったのか。十字架と聖書を前にしておきながら、そこに愛は無かった。僕は、イエスの犠牲をあらわす十字架のある礼拝堂という空間で、耐え難い怒りと恐れ、罪の意識とに押しつぶされそうになっていた。

 やっと終わった、という頃、とある信徒がやつれていた僕にこう話しかけてくれた。「大変でしょ? 教会の総会はこんなもんだよ。」その言葉が信じられなかった。こんな僕らに、イエスは「君はいま楽園にいる」と言ってくれるだろうか?

 

形骸化する礼拝

 ルーテル教会は、典礼を重んじるカトリックに極めて類似した礼拝を守っている。定められた式文に従った礼拝は、他のプロテスタント教会ではあまり見られない。厳粛な儀礼の形式は、人に謙虚さや慎ましさを齎す……はずだ。

 カトリックのミサにお邪魔したことがある。信徒は皆、聖堂に入る前に聖水を指につけ十字を切り、開会まで沈黙のうちに祈っている。挨拶は軽く交わすのみに留め、主への愛と畏れを再確認するために静粛を保っていたように見えた

 だが、こちらはどうだろう。始まりの打鐘やオルガン序奏が始まるまで、和気藹々と挨拶や雑談に花を咲かせるのはまだよいが、牧師がキャンドルを点灯するまで私語をやめない人々が少なくない。ましてや、礼拝中に私用で話しかけられたことまである。

 礼拝後も、聖書や神、信仰についての話が信徒間で行われることは、ほとんどない。少なくとも、僕がそういった話題を振られたことはない。まあ、これは僕の寡聞によるところかもしれないが。

 これでは、礼拝はただの寄り合いに過ぎない。イエスが集まることを義務づけたとはいえ、礼拝式文や聖書朗読のほかで信徒間で神やみことばが語られることのない礼拝は、いったい何のためのものなのだろうか。

 

聖書的・キリスト教的ではないものの存在

 日本のルーテル教会は、自由主義神学の立場である(と思っている)。原理主義的、(悪い意味での)福音主義的信仰を教義としていない。よって、他教派や他宗教との交流も行われている。しかし、エキュメニカル、マルチカルチュラリズムであることは、「何でもアリ」を意味するのではない

 人にもよるが、仏式葬儀で焼香をしたり、仏式や神式の先祖の墓所に参ったり、観光や見聞を深めるために寺社仏閣を訪れたりすることは、否定されるものではない。しかし、キリスト者である以上、「他の神を崇拝してはならない」という十戒の一つを逸脱してしまうことには、問題がある。つまり、神社神職や仏教僧侶etc.、その氏子や檀家etc.と互いの信仰を尊重したうえで交流することは「隣人愛」であるが、お守りを買ったり参拝したりすることはアウトであると思う。

 「パワーストーン」などのスピリチュアルアイテムを「信じて」身につけていたり、怪しげなお札やお守りを「信じて」身につけていたりするのは、云うまでもなくキリスト教ではない。占いもそうだ。テレビ占いを軽い気持ちで(エンタメとして)見る程度ならまだしも、数秘術占星術、聞いたことのない謎の占術を「信じて」やっている人にも出会った。占いは聖書ははっきりと禁じているし、占いを「信じる」ことは偶像崇拝だ。「荒野の誘惑」では「神を試みてはならない」とも語られている。

 「聖書を枕元に置いて寝ると、魔が寄ってこない気がします!」などと嬉々として語る人に出会ったことがあるが、それは物質としての「聖書」を崇拝する偶像崇拝に他ならない。聖書はお守りではない。

 以前、このブログに書いたが、牧師崇拝はキリスト教的ではないだけではなく、カルト的でもある。

 

「ルーテル」を冠する意味とは?

 ルーテル教会の信条は、使徒信条、ニケーア信条、アタナシウス信条、メランヒトンアウクスブルク信仰告白、そして、ルターの大・小教理問答だ。ルターは牧師、信徒(特に子どもを教育する親)に向けて、語りかけるような文体で教理問答を遺した。これを信仰の道標にするからこそ、ルーテル教会といえる。しかし、実際の教会ではどうだろうか。少なくとも、僕はルターの教理問答が話題に上がっている場面に出会ったことはない。説教がルター神学に基づいた聖書解釈のもとで行われているという点では、ルーテル教会たる教会になっているのだろうが……。もっとも、僕の狭い見聞でのことなので、「うちはルターの勉強をバリバリやってます!」という教会もあるかもしれないし、あってほしい。

 

教会の世俗的運営は会衆制。じゃあ、神学は?

 個々のルーテル教会の運営は選挙によって選出された役員によって行われる、いわゆる会衆制が採用されている。(良くも悪くも)民主的で、おおむね円滑な運営がなされているようだ。しかし、神学に関することは? どうも僕には「牧師に丸投げ」……というよりは「牧師以外が神学を語ることはタブー」という雰囲気があるように感じる。あくまで、空気から感じ取っただけだが。民衆には理解不能ラテン語典礼文や聖書を読み上げて説教をしていた中世のカトリックじゃないんだから。自ら聖書を読み、そのみことばを血肉にして生きていくのがプロテスタント福音主義ではないのか? と思っている。何のためにルターはドイツ語聖書を作ったのか? 福音主義Evangelismが何を意味するのか? それを考えなくちゃ。

 

教会は仲良しクラブでもお茶会クラブでも牧師ファンクラブでもねぇんだよ

 語気を荒らげてしまったが、僕が教会に抱いていたモヤモヤはこれだ。キリスト教から離れたキリスト教会は、まるで公園の東屋だ。

 

言い訳というか……

 ここまで読んでくださった方、どうもありがとうございます。狂ったのか許さんぞ、とお思いかもしれませんが、僕自身は一人のルター派キリスト者として、神学を学び、考えてきたことを言語化したのです。この記述が、分裂や不和を齎すかもしれません。しかし、それでも僕がキリストの従僕として考えたものであるということはご理解いただきたい。

 最後に、この考えをまとめて世に放つ動機と勇気を与えてくれた、真摯なキリスト者 S.W.兄弟と、彼との出会いに導いてくださった主に感謝を捧げます。

 

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